生野銀山の歴史 この日の気温は30度を越えていた。高原にあっても真夏ともなれば、差して変わらない暑さであった。しかし坑内に入ると気温は12度と一変してしまう。これほどまでに違うものかと驚かされる。天然クーラーは快適であった。ここは兵庫県のほぼ中央部に位置する生野銀山。小学生の社会科の教科書で習ったことを鮮明に記憶している。ここにはこれまで夏休みに何度か訪ねたことがあった。

 生野銀山は807(大同2)年に露頭を発見したと伝えられている。室町年間に本格的な採掘が始まり、織田信長、豊臣秀吉の直轄時代を経て、徳川家康では銀山奉行が設置されている。更に第3代将軍・家光の頃には、銀産量は月にして562kgになっている。 明治時代には政府直轄鉱山として、フランス人技師ジャン・スランソワ・コワニエが着任。以降、先進技術の導入により目覚しい近代化へ発展。更に皇室財産から三菱合資会社に払い下げとなり、1973(昭和48)年に閉山。1200年の長い歴史の幕を閉じた。

 この間、掘り進んだ坑道の総延長は350km以上。深さは880mの深部にまで達する。これはJR東海の新大阪駅から、静岡駅近くまでの距離に匹敵するから驚きだ。更に採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいる。

 1542(天文11)年より1973(昭和48)年までの銀産量は1723トン、年平均にすると4トンになる。一年間で取れる量は僅か4トントラック1台分でしかない。しかしそれ程、銀は貴重な物なのであったのだ。

 久しぶりに生野銀山を訪れた。入口にはとても山奥にあるとは思えない立派な石門があった。よく見ると上の方に、菊の御紋が入っていた。そうなんだ!ここは特別な場所なのだ。

撮影2007年冬