◆ 遥かブラジルへの移民

  神戸市立板宿小学校は、環境に恵まれた素晴らしい学校であった。団塊の世代に生まれた私達は、一学年が10クラスもあり、500人を越える生徒がいた。卒業式でさえ見たことのない人も、名前すら知らない人が大半であった。小学校3年の時、同じクラスの中に野球の上手な男の子がいた。彼はサウスポーで元気がよく、誰からも好かれていた。私の大切な友人であった。

 名前は高岡君。自宅は学校のすぐそばで、親は眼鏡店を営んでいた。いつも一緒によく遊んだ。 ある日、担任の先生より衝撃的な発表を聞かされた。高岡君が家族揃ってブラジルに移民するとのこと。クラスで一番人気者であっただけに、みんな大きなショックを受けてしまった。もうこれで一生会えないかも知れない。そう思うとたまらなく寂しさが込み上げてくる。「サントス丸」の船に乗ってブラジルまで行くと聞き、神戸の港まで見送りに行きたかった。しかし小学校3年生の私一人で行くには、余りにも困難な状況であった。その後、毎日のように高岡君の眼鏡店の前を通る。しかし店は閉まったままであった。彼とは今日まで48年間会えないままになっている。生きていて欲しい。そして幸せであって欲しい。それが今の私の願いである。

  1907(明治40)年に日本人を対象とした新移民法がブラジルで成立した。これを受けて第一回の記念すべき移民は翌年「笠戸丸」で791人が渡った。そして1993年制度廃止されるまでに、約30万人もの人が新天地を目指して、「勇気」を前面に希望と不安を抱えながら渡って行った。 神戸・山の手に旧神戸移民センターがある。そこに「ブラジル移民発祥の地」という記念碑が花壇の中に建てられていた。周りにはブラジルの国花である「イペー」の黄色い花が咲いていた。この場所に立つと「高岡君」の元気な顔を思い出す。

撮影2004年 秋