◆百貨店の王様「三越」

 東京駅から山手線・中央線で次の駅は「神田」である。東側一帯は日本銀行を初め沢山の銀行及び、大手企業のビルが所狭しとひしめき合って建っている。やっと東京にもなれて来たのか言葉も自然と東京弁が出てくるようになった。大学1年の終わりの頃には「え!関西出身?冗談でしょう」とまで言われようになった。そんな時先輩から誘われてアルバイトに行く事になった。ロマン・吉忠(株)京都の呉服問屋から、戦後服地メーカーとして成長した創業120年余りの大手企業。布地を指定された着分に切るのが私の仕事。元々私の身体つきからして、肉体労働の方が賃金も高く、向いているように思っていた。短期間ではあったが勤める事にした。

 昼ごはん時にはオフィース街のため、一斉に行きつけの店に入る。席を取るのがまるで戦争だ。古いそば屋の二階も満員であるが、私はその店の建物、時代を感じて漂う歴史なるものが好きであった。注文は決まって「たまご丼」である。実は私は子供の時より肉が嫌いであった。5〜6才の頃であったろうか、自宅でたまに「すき焼き」が出てきた。親はご馳走よ!と云って、生卵が入ったお椀に鍋からおかずを注いだ。その中に「白い消しゴム」を軟らかくしたようなものがあった。私は聞いた「これなに?」すると父は「お肉」。今では分かるが脂身であった。食べて見ると気持が悪くこれが肉なのか。それ以来20歳になるまで食べる事はなかった。もし赤身の肉を食べていたら。

 このあたりの一角に「三越」本店があった。神戸にもあったので親しみはあった。入り口には何故かライオンの像が左右に置かれてある。それも大変に大きく立派なものである。私は繁々とライオンを見て思った。それは「百獣の王」なのである。当時の買い物の主流は百貨店であった。全国の主要都市には必ずと行っていい程、有名百貨店が進出していた。いわゆる百貨店戦争の時代である。その中の老舗中の老舗が三越であり「百貨店の王」をライオンに託したのかも。貧乏学生の私にとって三越で買い物をする事は一度もなかった。歴史をたどれば日本橋本店は1914年に、日本初のエスカレーターを設置して落成している。三越の包装紙はブランドの先駆であったし、安心と信用を武器に贈り物には最高の敬意が伝わって来るようにも思えた。しかし時代は大きく変化して行くのだ。

撮影2004年 春